2019年の夏、慶應とは違う某英語学校でAmerican short storiesのクラスを履修した。いくつかのアメリカ文学作家の短篇を毎週読んで話し合うというものだ。
初日は、Ernest HemingwayのA Day's Wait(1933)
9歳の子どもが、病気で高熱をだしたことをきっかけに、自分の死を考えたときのことを簡潔な文章で描いた、たった1,056語の短編。
9歳って、子どもが死というものを考え始める年齢なのだろうか。英語学校の先生の9歳の子どもは、「お母さんが死んだらどうしよう、お母さんなしでは何にもできない」って言い出して泣き出すのだそうだ。ちなみにお父さんはどうでもいいらしい。
子どもの頃に、“死ぬ”とは、どういうものなのかという実験をしたことがあった。
目を塞いで耳を閉じて喋らない。そういう状態が死なのだろうか? しかし今現在考えをめぐらしている自分自身すらも消滅するのが死なのだということを考えると、これは違う。
では深い闇の中に自分が落ちていくことなのかと想像してみたけど、これも違う。ぐるぐると考えて結局わからなくなって飽きてしまったが、あのときはじめて死について考えたのだ。
あれは10歳前後だったかもしれない。
誰もが、「死」とはどういうものか感じる瞬間がある。でも、そんなことはすぐ忘れてしまう。その刹那を鮮やかに切り取ってみせたヘミングウェイの視点に驚かされる。
最後にこの男の子は「自分は死なない」ということがわかる。しかし猛烈に死を感じたこの瞬間は、彼を変えた。それは永久に彼を変えたのかもしれないし、子ども時代特有の一過的な変化かもしれない。
最後はこんな風に終わる。
The hold over himself relaxed too, finally, and the next day it was very slack and he cried very easily at little things that were of no importance.
彼をおおっていたこわばった感情もやわらぎ、翌日にはようやくそれがゆるやかになり、そして彼は、ほんのささいなことでもすぐ泣くようになった。
ヘミングウェイの英語は超シンプルだ。
しかし彼の手法がIceberg Principle(Iceberg Theory)と言われるように、必要最小限に簡潔に削ぎ落とされた文章から見えている表層はごくわずか。その背景にある海底の氷山の大きさは底知れない。「行間を読め」というのではない。シンプルな言葉の下に深海のように複雑な背景が隠れているのかもしれないし、そうではないかもしれない。それは観る人の視点によって異なってくる。
というような話をしながら、「アルジェリア人作家カメル・ダーウド(Kamel Daoud)が、カミュの『異邦人』を、殺されたアラブ人の視点から描いた『もうひとつの『異邦人』—ムルソー再捜査(The Meursault Investigation)』鵜戸聡訳(水声社、2019年)も面白いよー!」と先生が教えてくれる。彼は読んだ本をメモする読書日記をずっとつけているんだと言って、クラウドに入っているそのジャーナル・リストを見せてくれた。
ところでこの短篇の邦題はいろいろあるが、「死ぬかと思って」というのはなんだかなという感じ。「死を待つ一日」の方がしっくりくる気がする。
▼ヘミングウェイについて勉強を深めたい方にオススメのサイトや文献
(Hiroko Nishikawa)
Hemingway, Ernest. A Day's Wait. Winner Take Nothing. (Charles Scribner's Sons, 1933) ※「A Day's Wait」初出は、短篇コレクションの本書(1933)。
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